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午後23時、アメリカ南部にて
アメリカのテキサス州ヒューストンに駐在する筆者が当地にて感じた様々な事柄をお伝えします。
07 | 2013/08 | 09
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INTERESTING TIMES
皆さんはアメリカのヒューストンと聞いて、何を思い浮かべるでしょうか?NASAのある街、石油ガス産業の街、カウボーイのいる街、人によって印象は様々かと思います。ここに住んでいる僕らからしてみても、シェールガスブームで沸き返る街、アメリカ最大の先端医療産業を抱える街、アメリカ3大スポーツのチームが全てある街、主要な舞台芸術の劇団が全て揃っている街、はたまた、全米で最悪の渋滞に悩んでいて公共交通機関が不足している街など、人によって色々な感じ方を持っていることでしょう。

でも、ここヒューストンには、表面に見えるそんな姿とはまた違った一面もあるのです。ヒューストンが誇る名門大学であるライス大学のキンダー都市研究所に所属する社会学者、ステファン・クリンバーグ教授の研究チームは、1982年から30年間に渡り、ヒューストンの経済的、そして人口動態的な変化を追い続け、それによってより深いレベルでヒューストンが抱える課題、そして、その裏返しとしての可能性を明らかにしようとしました。その研究成果を一本の短い映画にまとめたのが、「INTERESTING TIMES」です。詳しくはぜひ映画本編を見て頂きたいのですが、何かのきっかけになる様、ここで彼らの問題意識を簡単に紹介したいと思います。

一つ目の問題は高等教育へのアクセスと、貧富の差の拡大という問題。20世紀初め以降のヒューストンは、農業、牧畜業と新しい産業としての石油産業に支えられた街でした。かつて、ヒューストンの人々は、石油も含めた大地からの恵みに頼っていれば、自らの生計を立てることができました。しかし、現代に近づくにつれて産業が高度化し、単純労働については発展途上国に移転されていく中で、いつのまにかヒューストンにはブルーカラーの労働機会が無くなっていったのです。そして、高度情報化する社会で有利な職に就くためには、高等教育へのアクセスが決定的に重要になっており、教育機会を持てた人々と持てなかった人々の間で、加速度的に貧富の差が広がっているのです。

二つ目の問題は、高度産業に従事する人々をヒューストンに定着させるために、いかにこの街のQOL(Quality Of Life)を確保していくとかという問題。いかにシェールガスブームに沸きかえっているとはいえ、高度情報化するアメリカ社会の中で、ヒューストンの産業も決して石油ガス一辺倒というわけではなく、バイオ、ナノ、遺伝子等の先端作業が発達してきており、全米最大の医療産業コンプレックスであるヒューストン・メディカルセンターはその象徴です。そうした先端産業に従事する人々は、非常に優秀な頭脳を持ち、世界最高峰の教育を受けた、本来世界のどこででも働ける人材。ヒューストンが真に住みやすい(QOLが確保された街)でなければこの街に定着してくれず、それはこれからのヒューストン経済を左右する問題です。そこで、ヒューストンの産業界は、この街に100万本もの木を植え、沼地を公園に変え、最終的にヒューストンを緑溢れる街にしようというプロジェクトを始めたのです。

三つ目の、そしておそらく最も深刻な問題は、ヒューストンの民族構成の劇的変化という問題。20世紀初頭にこの街で石油産業が始まって以来、ヒューストンは長らくアングロサクソン系の白人が圧倒的多数を占める典型的な南部の街でした。しかし、1960年代の移民法改正、そして1980年代初めの石油ブームの終焉を経て、ヒューストンにはラテンアメリカ、アフリカ、アジアから多数の移民が次々とやって来ました。結果として、現在のヒューストンの人口構成としては、ラティーノの人口が白人よりも多く、その意味ではヒューストンでは今、アングロサクソン系の白人も含めた全ての民族集団が、アメリカ的文脈における「マイノリティ」なのです。そして、そうして増えた移民は必ずしもヒューストン経済に平等に参加できるわけではなく、特に、ラティーノと黒人の流入者の多くは貧困にあえいでいます。そして、アングロサクソン系の人口は日本に並ぶ様な極度の高齢化を迎えつつあり、ヒューストンの社会がこれから発展していけるのかは、こうした新たな移民人口をどう包摂し、誰もにとって機会均等な社会を作っていけるかにかかっているのです。

こうして、一歩間違えれば社会を揺るがしかねない複雑な問題を抱えているヒューストン。しかし、クリンバーグ教授は、中国語の「危機」という漢字を挙げて、今のヒューストンがアメリカの他のどこの時代、どこの都市よりも、「INTERESTING TIMES」なのだと締めくくります。なぜそうなのかはぜひ映画を見て確かめて頂ければと思います。

本日、ヒューストン在住の日本人、日系人の皆さんに集まって頂き、拙いながらもこの映画の上映会を開かせて頂きました。今日という日が、皆さんがヒューストンという街をより深く知るきっかけになっていれば、僕にとってそれ以上の喜びはありません。本当にありがとうございました!

↓INTERESTING TIMESへのリンク
http://kinder.rice.edu/InterestingTimes/
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ヒューストン観光ガイド② オレンジ・ショー
文化とは、アートとは、誰のものなのだろう?

時と場所を問わず、その問いに答えることは容易ではなく、それは現代のここヒューストンでも同様だ。全米に誇れる一大美術・博物館群、ミュージアム・ディストリクトを抱え、オークションに出展されれば、相当の高値で取引されるであろう美術品を多数抱えるこの街。でも、おそらく文化とはそうした高尚な芸術だけではない。ここが仮に「文化都市ヒューストン」であるならば、その広がりはより大きな地平に広がっているはずだ。そう確認させる場所がこの街の東の外れにある。

イースト・エンド、ダウンタウンから45号線を南東に進んだところにあるこのエリアは、一般に比較的治安が悪いと言われ、特に用事がなければなかなか近づくこともないと思う。ただここには、同じ名前を関するロンドンの東の外れの一角と同じく、アーティスト、特に、日々の生活を必死に生きる一般の人々をターゲットにした作品を制作するアーティストが多く住むエリアでもある。

ヒューストンの郵便局員であったジェフ・D・マックキサックもそんなアーティストの一人だった。1956年、彼は近所で拾ってきた廃材や古びたおもちゃ、その他一切のガラクタを自らの土地に運び出し、それをカラフルに染色した上で一つのモニュメントを作り始める。数十年が建ち、モニュメントが一つの巨大な城になった時、彼は自分の大好物で、それを多く摂取すれば世界の人々がより健康になると信じて止まない食べ物、「オレンジ」にちなんで、自らの城を「オレンジ・ショー」と名づけた。彼は自らが作り上げたモニュメントに、ヒューストン中、いや、アメリカ中の人々が訪れると信じたまま、この世を去ったのだった。

彼の死後、もともとガラクタで作られたモニュメントは、急速に朽ちかけようとしていたが、この孤独な老人の夢に、視覚芸術としての価値の高さを感じ取ったヒューストンのアートのパトロン達は、Orange Show Center for Visionary Artという組織を作り、修繕を施した上で1982年にこのモニュメントを一般に公開した。遊園地のアトラクションの様な入り口から一歩中に入れば、内部は色とりどりの取っ手や柵に導かれて、迷路の様にあらゆる方向に広がり、一見価値のないものでも、イマジネーション一つで素晴らしいアートに変えることができるのだという事実を気づかせてくれる。

そう、ここはヒューストンにおける「庶民による庶民のためのアート」の一つの中心なのだ。


Orange show

そして、オレンジ・ショーはその後、ヒューストンの人々にとって、最も身近なものを題材にしたアートの運営も担うようになった。毎年5月に開催され、思い思いのデコレーションを溢れんばかりに施されたアート・カー達が通りを練り歩く、ヒューストン・アート・カー・パレードだ。この週末、オレンジ・ショーのモニュメントを会場にして、アート・カー文化をテーマとしたドキュメンタリー映画の上映会が開かれた。

映画には、ヒューストンの人々、テキサスの人々に取って最も身近な存在、どこへ行くのも一緒の相棒である「車」を誰よりも愛し、だからこそそれを思い思いのアートに変えずにはいられない個性的なアーティスト達が多数登場し、自らもアート・カーの製作者であるとともに高校教師であるレベッカ・バスの活動を軸に画面が進んでいく。彼女は、ヒューストンの低所得者層として暮らす生徒たちに5月のパレードに向けてアート・カーを製作するという課題を与え、その課題を通して、アーティスティックであること、また、アート制作を通じて自分に向き合い、更には自らの殻を破ることの素晴らしさを教えようとする。映画の上映後にはレベッカ本人が登場し、「新しいアート・カーは作らないのか」という観客からの質問に対して、まるで自らの存在を否定されたことを怒っているかの様にこう答えたのだ。

「わたしがアート・カーを作り続けることを止められると思うの?」

おそらくその場にいたアジア人は僕らだけだったけれど、今夜改めてヒューストンの、そしてアメリカの文化の奥深さを知った気がした。

art car movie

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一見したところ、外国人が入りにくい雰囲気がありますが、実際にはスタッフもみんなフレンドリーで、ヒューストンのアートの裾野の広さを知る意味でも、絶対に一見の価値ありです!定期的に映画の上映会等のイベントを実施しているので、事前にイベントの日程を確認して行くとより楽しめると思います。

ザ・オレンジ・ショー

http://orangeshow.org/
住所: 2402 Munger St, Houston, TX 77023 アメリカ合衆国
電話:+1 713-926-6368




テキサスの2つの勝利の記憶
決して悪気はなかったのだと思うのだけど、最近アメリカ人の知人から聞いた忘れられない話がある。数年前の今週、彼は出張で深い関係を有する企業のある日本に滞在していた。ある日の朝、滞在先のホテルから出張先の日本企業のオフィスに向かうタクシーの中で彼は、アメリカで彼の帰りを待つ奥さんから、その日がとある記念日であることを祝うテキストメッセージを受け取る。それに気を良くした彼は、日本人の同僚ともその喜びを分かち合おうと、オフィスに着いた瞬間こう叫んだ。「ハッピー・ヒロシマ!」その直後、凍りついた表情をしている同僚たちを見て、彼は自分が日本にいることを思い出したという。

思えば今週は僕にとって、アメリカで8月6日と9日を迎えた最初の年だった。日本からのニュースでは、今年も原子爆弾の犠牲者に対する慰霊の様子が報道され、改めて、多くの民間人の犠牲者を出した戦争の恐ろしさと愚かさを再認識させられる。しかし一方で、冒頭のアメリカ人の知人の話は、この歴史的な日に関する一つの違った意味づけを提起する。それは、ヒロシマとナガサキへの原子爆弾の投下は、太平洋戦争におけるアメリカの最終的勝利にとっては、日本の戦争継続の意思を打ち砕いたという意味で、決定的な重要性を持っていたということだ。古今東西の様々な戦争において、その出来事が自分たちの大きな勝利に深く結びついていた時には、その出来事が持っていた他の側面から勝利という側面のみが結晶化される形で、「勝利の記憶」として後世まで語り継がれていくことがある。その意味では、ここヒューストンにも、「勝利の記憶」に関する一つの大きなモニュメントが立っている。

ヒューストンの中心部から見て東、広大な港湾地帯の一角にあるサンジャシントに、天空に突き刺さる様に大きなオベリスクが建っている。以前紹介したバーネット・ニューマンの作品、「壊れたオベリスク」とは対照的に、それが記念するものに関する絶対的な自信を示すかのようにオベリスクはどこまでもまっすぐに立ち、その最上部にはテキサスの象徴である一つ星「ローン・スター」が輝いている。テキサスらしい話ではあるが、この記念碑本体の高さは、ワシントンDCにあるワシントン記念塔と同じであるものの、最上部のローンスターのおかげで世界一高いモニュメントとみなされているのだという。

このモニュメントは、テキサス独立戦争中の1836年、サム・ヒューストン将軍率いるテキサス反乱軍に決定的な勝利をもたらした「サンジャシントの戦い」を記念して建てられたものだ。19世紀前半、同じく今はテキサスの主要都市の名前になっているスティーブン・オースティンに率いられたアメリカ人たちはテキサスへの入植を進めていき、当時テキサスを統治していたスペインとも契約に基づいた平和的な関係を維持していた。しかし、メキシコ独立戦争の結果として新しいテキサスの統治者となったメキシコは、サンタ・アナ将軍のもと、極めて中央集権的な独裁を進め、テキサスにおけるアメリカ人入植者たちの活動に様々な制約を加えていく。両者の不和は1835年にアメリカ人入植者による革命という形の戦争に結実し、初期の段階こそアメリカ人革命軍が勝利を収めるものの、次第に中央からの援軍が合流し圧倒的に戦力に勝るメキシコ軍に対して、革命軍は後退を余儀なくされていく。

特にメキシコ独立の英雄であるサンタ・アナ将軍自身が反乱軍の鎮圧に加わって以降は、サンアントニオにおける有名な「アラモ砦の戦い」を含めてメキシコ軍の勝利が続き、アメリカ人革命軍は長い逃亡の末、ヒューストン郊外のガルベストンまで追い詰められていた。しかし、ここで奇跡が起きる。戦力では圧倒的に勝るといはいえ、長い遠征の疲労が限界に達していたメキシコ軍に対して、アメリカ人革命軍はこのサンジャシントで捨て身の攻勢をかける。結果として革命軍はほとんど犠牲者を出すことなく、メキシコ軍に壊滅的な打撃を与え、サンタ・アナ将軍自身を捕らえることに成功した。サンタ・アナ将軍は自らの命と引き換えに、テキサスの独立を承認させられたのだった。

こうしてサンジャシントは、自身の独立戦争における決定的な「勝利の記憶」としてテキサスの人々の心にいつまでも刻まれることになった。しかし、この勝利の記憶にしても、見方を変えてメキシコ側の立場に立てば、一つの素朴な疑問をもたらす。「そもそも、アメリカ人革命軍にメキシコの土地を独立させる正当性はあったのだろうか?」テキサス独立戦争の歴史的意義について論じることはこの記事の範疇を大いに超えるので、ここでは全く違った認識を持っていた当事者の一人の言葉を紹介するに留めたい。テキサス独立戦争は、新生国家メキシコの独裁によって自らの権利を侵害されたアメリカ人入植者たちが自由のために立ち上がったと説明されるが、その独裁の当事者であったサンタ・アナ将軍はアメリカ軍の捕虜であった間、新生テキサス共和国の高官に対してこう語っている。

(かつてのメキシコ独立戦争の際)私が大いなる熱情とまったき誠実とともに自由のために立ち上がったのは真実です。しかし、わたしはその愚かさがすぐに分かったのです。来たるべき100年に、わが人民は自由に適合しません。彼らは自由を何たるかを知らず、そのまま無知蒙昧であり、カトリック聖職者の影響下にある現状では、独裁が彼らには適正な統治体制なのです。しかしそれが賢明で有徳のものにならないだろうという理由はありません。

生涯、フランスの英雄ナポレオンに憧れていたサンタアナ将軍。フランスが、フランス革命後の混乱の後、ナポレオン時代を経て、国民国家としてまとまっていったことを思う時、彼の時代のメキシコを「独裁」としてのみ語るのは、それはそれで余りに一面的過ぎる見方だろう。

テキサスに残る二つの勝利の記憶に対して、日本人である僕らは、来る8月15日に向けて、悲しみと戦争に対する愚かさの記憶を呼び起こしていくことになるだろう。複数の国や民族の関わりとして、戦争ほど全ての当事者が共通の記憶を持つことが難しいものはない。僕にできることがあるとすれば、全ての関係者が「勝利の記憶」を持てる状態、現代的に言えば、「WIN-WINの関係」を持てる状態を目指して、ビジネスを通じて、そして、自らの思索と文章を通じて、周りの世界に働きかけていくことなのだとは思う。

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ヒューストン観光ガイド① ロスコ・チャペル
「個々の宗教を超えて、時に「神」と呼ばれる超越的存在に近づける場所があったなら」

科学技術は絶え間ない発達を続け、先端医療等の分野ではかつて「神の領域」と呼ばれていたタブーに近づこうとしている2010年代現在。それでも未だ宗教は衰えることなく、各宗教間の争いは国際紛争の主要因となっており、宗教を超えて人間存在を洞察できる機会がますます求められていると言える。

1960年代のアメリカはテキサス州ヒューストン、そんな課題に挑んだ二人のユダヤ系アメリカ人がいた。20世紀半ばのアメリカ美術界できらめきを放ったムーブメントである抽象表現主義(Abstract Expressionism)を代表する2人のアーティストであるマーク・ロスコとバーネット・ニューマンである。

ヒューストン都心のほぼ中心に近いエリアに彼らの挑戦の結晶としてのモニュメント、ロスコ・チャペルはある。隣接するメニル・コレクションと同じく、世界的石油サービス企業であるシュランベルジェの創始者一族であり、20世紀半ばのヒューストンでアーティストの最大のパトロンとして活躍した、ジョン・メニル、ドミニク・メニル夫妻が企画したものだ。

近くの芝生でくつろぐ地元っ子たちを横目に敷地内に近づくと、まずバーネット・ニューマンのBroken Obelisk(壊れたオベリスク)に出迎えられる。晩年の彼が多く製作した彫刻作品で、ピラミッドの上に下部が破損したオベリスクが逆さに突き刺さっている。古代エジプトに起源を持つ宗教的モニュメントを冒涜したかの様なそのシルエットは、彼の作品に通低する宗教的な絶望を示唆すると同時に、より普遍的なものへの熱望を示している様にも思える。

そして、オベリスクの脇には、六角形の建物であるロスコ・チャペルが静かに立ち、中にはマーク・ロスコが製作した一連の壁画が掲げられている。深い黒と紫色で染められたその壁画は、常にロスコ自身が望んだ様に、全ての壁を覆いつくす様に展示されることで、その中心に立つ者に、どの時間にも属してもいないかの様な超時間的な感覚を与え、それでいて、自分の存在を超えた何者かへの親密な結びつきを感じさせる。

企画者であるドミニク・メニル婦人は語った。

"This Chapel has roots deeper than our involvement. It is rooted in the growing awareness that love and the search for truth are unifying princples. It is rooted in the growing hope that communities who worship God should find in their common aspiration the possibility of dialogue with one another in a spirit of respect and love".

(このチャペルは私たち自身が関わったものよりも深いところに根ざしているのです。それは愛と真実への探究心が誰もに共通する原則であるという高まりつつある実感であり、それぞれに「神」と呼ばれるものを崇拝するそれぞれの集団が、尊敬と愛の精神の下、相互理解に至ろうとする情熱を分かち合えるはずだという希望なのです。)

残念なことに、マーク・ロスコとバーネット・ニューマンの両名は、このチャペルの完成を見ることなく、1970年に相次いでこの世を去った。一貫して「Abstract(抽象芸術)」と呼ばれることを嫌い、自身の作品が持つ宗教的性質を否定しなかった2人。「約束の地」を追われて以後、2000年以上を超えた離散の歴史を送ってきたユダヤ人の末裔として、「宗教間の融和」への望みも共通して強かったのかもしれない。

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ヒューストン観光ガイドをするなら、絶対に最初に紹介したいと思っていたスポットです。20世紀中盤のアメリカ美術が至った一つの到達点であるとともに、難しい背景知識なしに、その中心部に静かに座ることで、自分自身にもゆっくりと向き合える場所。ぜひ訪れてみてください!

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Rothko Chapel(ロスコ・チャペル)
http://www.rothkochapel.org/
住所: 3900 Yupon St, Houston, TX 77006 アメリカ合衆国
電話:+1 713-524-9839
営業時間:
月曜日 10時00分~18時00分
火曜日 10時00分~18時00分
水曜日 10時00分~18時00分
木曜日 10時00分~18時00分
金曜日 10時00分~18時00分
土曜日 10時00分~18時00分
日曜日 10時00分~18時00分



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Author:タツヒコ
アメリカのテキサス州ヒューストンに駐在する商社マンです。

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