FC2ブログ
午後23時、アメリカ南部にて
アメリカのテキサス州ヒューストンに駐在する筆者が当地にて感じた様々な事柄をお伝えします。
08 | 2013/09 | 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

異空間としての劇場とヒューストンバレエ
僕が大好きな映画の一つに、ラブコメディーの巨匠ウッディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』という映画がある。映画脚本家で初めての小説を執筆中の主人公は、婚約者及びその両親とパリを訪れる。憧れのパリに興奮する一方、婚約者やその友人の気取った会話に違和感を感じた主人公が、酔いつぶれて深夜のパリの街角を歩いていると、目の前に一台のアンティークカーが泊まる。その車には時代遅れの服装をした男女が乗っており、パーティーに行くという彼らに誘われるがままに車に乗り込むと、たどり着いた先は主人公が愛して止まない1920年代のパリだった。

連日のパーティーで主人公は憧れのフィッツジェラルドやヘミングウェイ、ジャン・コクトー達と出会いすっかり舞い上がるが、ある夜、パブロ・ピカソと当時の彼の愛人アドリアナと出会い、主人公はアドリアナに一目惚れする。しかし、主人公にとっては黄金時代である1920年代も、アドリアナにとっては退屈な色褪せた時代であり、二人は更にアドリアナの憧れであるベル・エポック期のパリに迷い込む。そこで伝説のレストラン「マキシム」を訪れた二人が出会ったのは、ロートレック、ゴーギャン、ドガといった巨匠達だった。

物語の結末はご自身の目で確かめて欲しいのだが、ウッディ・アレン一流のエスプリの効いたセリフ回しと、パリを愛した文豪や巨匠たちに実際に会えるという夢の様なストーリーの背後にあるのは、異空間としてのパリ、不満の多い現実から隔絶された理想の世界という構造である。1920年代やベル・エポック期のパリは無理としても、つかの間だけでもそんな異空間に浸ることはできないものだろうか。この週末、その答えは劇場(シアター)にあると感じさせる出来事があった。

この週末、ヒューストン・バレエは自身の劇場であるウォーサム・シアターで「メリー・ウィドウ」を公演した。この演目は、元々は20世紀初めにウィーンで書かれたオペラだが、後にバレエのストーリーとして再構成され、更に今回、ヒューストン・バレエ流のアレンジが加えられて上演されたものだ。架空の国家ポンテヴェドロの命運を握る程の財産を持った未亡人、ハンナのパリでの再婚相手探しをベースにストーリーは進むのだが、どの場面もダンスとその舞台設定は華やかそのものだった。

第一幕はポンテヴェドロの大使館でのフランス貴族趣味に満ちたダンスパーティー。第二幕では、パリ郊外のハンナの別荘を舞台に、スラブ風の祖国の民族衣装に身を包んだ一行が、素朴で軽快なポンテヴェドロの伝統的なダンスを披露する。そして、第三幕では、「ミッドナイト・イン・パリ」で主人公とアドリアナも迷い込んだベル・エポック期のレストラン「マキシム」を舞台に、バレリーナ達が巧みな足使いでスカートを捲り上げるカンカンダンスを踊り上げる。その刺激的でいて上品な様子は、それこそ当時のフレンチカンカンを愛したロートレックの絵画の様だった。

作り込まれた豪華な衣装や舞台装置と、たゆまぬ練習の成果としてのダンサー達の洗練された身体の動きに浸り、僕は数時間、ここがヒューストンであることを忘れ、日常を離れたどこか夢の世界に迷い込んだ様に感じていた。ただ一方で、劇場の外でもお会いしたことのある日本人ダンサーの方々の活躍が、この空間と現実とを結びつける。ヒューストンバレエには現在四名の日本人ダンサーの方が在籍しているが、今回の公演では彼と彼女達の見せ場も多く盛り込まれていた。そして公演の後、友人達に誘ってもらって、その日本人ダンサーの皆さんと食事を供にする機会を得たのだが、その席で一人のダンサーの方が、こんなことを語っていた。

「劇場は、ダンサー、オーケストラ、裏方の人々、そして観客自身が作り上げる一つの異空間なんです。「メリー・ウィドウ」の様なクラシックな作品でも、その日その時の時点での、ダンサーの経験や体調、気分によって生まれるパフォーマンスは異なるし、観客の側にしても、その日の気持ちや、一緒に訪れた人が誰かでも感じ方は異なるでしょう。劇場を訪れた人たちが上映中の数時間で、この一つの空間に思い思いの意味を見つけてくれればいいんです。」

そのダンサーの人も言っていたのだが、ヒューストンは残念ながらパリとは違って、街角を歩いていればたまたま文化的な事象に出会うといった場所ではない。(そもそも車社会のヒューストンで「街角を歩く」といったことはそうそうないのだが…)それでも、自分の手と足を使って探し続けていれば、このヒューストンでも、きっといくつもの魅力的な異空間に出会うことだろう。

ballet.jpg
スポンサーサイト
ヒューストン観光ガイド③ Wiess Energy Hall & Ocean Star Offshore Drilling Rig & Museum
博物館(ミュージアム)には、その文字が示す通り、本来あらゆるものが展示されうる。英語のミュージアムの語源となったギリシア語のムーセイオンという言葉にしても、アレクサンドリア大王が作り上げたヘレニズム帝国の中で、世界各地からのあらゆる知や文物を集めた、エジプト・アレクサンドリアの総合学術機関を意味していた。それでも、その時代、その場所で、他とは異なったものが展示されるとしたら、そこにはそこに生きる人々の何らかの思いが投影されていると考えるべきだろう。その点、産業構造が多様化したとはいえ、もとより石油の街であり続けたヒューストンには、石油に関する博物館がいくつか存在している。

一つは、Houston Museum of Natural Scienceの一角にあるWiess Energy Hall。Natural Sience Museumといえば、何といってもアメリカ最大と言われる恐竜に関する展示が有名だが、ヒューストンに、テキサスに密着した展示という意味では、石油及び石油開発に関する展示物を集めた、このWiess Energy Hallも負けてはいない。ホールに入るとすぐ、世界各地で採れる石油の比重の違いを装置を回すことで実感できる展示に迎えられ、それ以外にも、石油、石油探査、そして石油掘削を自らの目で耳で、更には手を動かすことで理解できる様に工夫がこらされた展示が集まっている。

極め付きはホールの中ほどにあるGeovatorというアトラクション。遊園地のアトラクションさながらのこの装置は7分程度の間隔で訪れるものを地下7000フィートもの深さの石油の井戸の中に迎え入れる。全方位に張り巡らされたスクリーンとリアルな音響と振動に浸っていると、あたかも実際に井戸の底にいる様に感じられ、そこにお調子者の船長の「このままだと石油が生産できないから、フラッキング(水圧破砕)してみようか?」といったセリフによって、あくまで気楽に最新の石油掘削の実際が学べるようになっている。石油掘削に関してここまで本格的なアトラクションを作れるのも石油の街ヒューストンならではだと思う。

oil 1

oil 2

もう一つがヒューストンの南東、メキシコ湾に面したガルベストンに位置するOcean Star Offshore Drilling Rig & Museum。一般の人が石油掘削、特に海上での石油掘削と言われて思い浮かべるのは、海の上に大きなやぐらがそそり立っている姿だと思うが、ここにはかつてメキシコ湾で実際に使われていた、石油の井戸を掘るベースとしてのそのやぐら(リグ)が、そのまま博物館となって保存されている。内部にはWeiss Energy Hallと同じく、石油自体や石油掘削技術に関する展示がある他に、二つの階を貫いて深海底が再現されたエリアがあり、セミサブマージブルリグ、ジャッキアップリグ等のリアルな模型が誇らしげに置かれ、こうした各種リグの技術開発がいかに深海での石油開発を可能にしたかが説明されている。

ここはかなりマニアックな施設なので、多少なりとも仕事上関わりのある人でなければ、隣に数件並ぶシーフードレストランでメキシコ湾から採れたばかりの魚に舌鼓を打った方がいいと思うかもしれない。ただ、そのシーフードレストランにしても、屋外のテーブルからメキシコ湾を眺める時に飛び交うカモメの間から見えるのは、近くには巨大なリグの修理工場、遠くにかすんで見えるのは実際に海の底から石油を生産し続けるリグである。それを見てここがテキサスだと改めて実感し、リグをそのまま博物館にしてしまおうというテキサスの人々の石油掘削に対する強い思いを感じるなら、一度は足を運ぶ価値があると考えてもらえると思う。

rig.jpg

ただ、個人的にはヒューストンが石油の街だと強く感じさせるもう一つの大きな展示がある。それはヒューストンの東の空に登る朝日、そしてヒューストンの西の空に沈む夕日である。ヒューストンにしばらく滞在した人は誰でも、朝日や夕日が日本と比べて随分大きいことに気づくと思う。特に夕方、高速道路を走っている時などに、さえぎるもののない高くて広いヒューストンの空に大きな夕日が見えた時には、すっかりその美しさに魅入ってしまう。だが、ヒューストンの太陽が他の場所と比べて大きいのは、ヒューストンの東部にあるアメリカ最大の石油化学プラント群から大気中に放出される微粒子が太陽からの光を屈折させ、太陽を実際よりも大きく見せているかららしい。

そう、ヒューストンの太陽の怪しい美しさは、石油という資源に人生を賭けてきた人々の情熱と罪深さを表現しているのだ。その時代、その場所に生きる人々の何事かに対する思いの強さが、それを博物館に展示させさらには文化として固着させていくなら、この太陽こそ展示されるべきものかもしれない。


Weiss Energy Hall (Houston Museum of Natural Science(ヒューストン自然科学博物館)内部)
www.hmns.org/‎
5555 Hermann Park Dr Houston, TX 77030 アメリカ合衆国
+1 713-639-4629


The Ocean Star Offshore Drilling Rig and Museum
www.oceanstaroec.com/‎
2002 Wharf Rd Galveston, TX 77550 アメリカ合衆国
+1 409-766-7827
音としての日本文化の継承者たち
情報化社会という言葉自体も死語になりつつある程、世界のほとんどの事象が情報としてデータ化され、瞬時に世界に共有されていく現代という時代。近い将来、日本語という言葉も他の言語にあっという間に翻訳され、日本の文化にしても、他の文化との相対的な差異が明確に表現される様になり、その意味で、それぞれの文化が、相互に置き換え可能だと考えられる時代が来るかもしれない。ただそれでも僕は、文化には未だ情報化になじまないいくつかの要素が存在すると思う。その一つが「音」という要素だ。

もちろん「音」にしても、今ではデジタルデータとして、いくらでも電子的に保存、共有されうる。しかし、「音」としての文化の専門家である、「音」のアーティスト達の生のパフォーマンスを目の当たりにする時、そこには、デジタルデータとしては拾いきれない、より豊かで複雑なものが立ち現れている様に感じられる。ましてや、その表現者たちが、過去から受け継いだ文化の伝統に、他の文化から摂取した要素を加えて、新たな表現を作り出そうとしているのであればなおさらだ。そのことを感じさせる二つのイベントが、今週末ヒューストンで開かれていた。

一つは英語落語。カナダ人として生まれた桂三輝(サンシャインと読みます)氏は、日本の古典芸能に興味を持って1999年に来日した後、特に創作落語の魅力に魅せられて、5年前に創作落語の大家である当時の桂三枝(現在の六代目桂文枝)師匠に弟子入りをした。師匠が「黒」と言えば白いものでも「黒」だと思わなければならないという絶対的な上下関係の伝統の中で厳しい修行に耐えてきたのは、いつか師匠の創作落語を英訳し、英語落語として北米で演じてみたいという夢があったからだった。その念願がかなって今回、カナダ・アメリカの各都市を回るというツアーが実現し、今週末にヒューストンに来たというわけだ。

二日間にわたって開かれた講演には、アメリカ人を中心に多くの観客が集まり、最初に古典落語、次に創作落語を英語で披露するという二部構成で行われた。舞台芸術としての落語には、手の動き、体の動き等の視覚的部分もその不可欠の要素を占めている。ただやはり、「話家」という落語家の別名が示す様に、落語の魅力の根幹は、「音声」として表現される言葉の面白さにあるだろう。その点、日本語で表現されることを狙って作られた創作落語が英訳された時に、その面白さが保たれるのだろうかという不安があったが、実際には会場は終始、笑いの渦に包まれていた。

その面白さの理由はおそらく、自身の体験もベースにして、英語スピーカーにとっての音声としての日本語の面白さに焦点を当てているからだと思う。例えば、日本語には57種類の感謝(gratitude)を表す表現があると切り出す。そして、「ありがとう」「どうもありがとう」「どうもありがとうございます」と音声表現を例示していき、どうも日本語というのは音声が長ければ長いほど、感謝の意味合いが強いらしいと展開していく。そして、最上級の感謝の表現は、とても長い「音」として表現され、日本語の意味がわからない観客も、その長く大層な響きからとても深い感謝が表現されているんだろうと期待する。しかし、オチを聞いてみればその表現とは、「あなたの御厚意に対しては感謝の言葉もございません」であり、英語にしてみれば、何のことはない、"I have no word to show my gratitude"というわけだ。日本語の複雑な音声と、英訳された時の的外れな意味のギャップを絶妙に捉えてはいないだろうか。

rakugo.jpg

もう一つがより純粋な「音」としての文化である音楽。落語講演が終わった夜、ロサンゼルスを中心に活動する太鼓奏者であるショージ・亀田、ニューヨークを中心に活動する篠笛と太鼓の奏者である渡辺薫、同じくニューヨークを中心に活動する三味線と琴の奏者兼ヴォーカリストである金子純恵のトリオによる演奏会が行われた。

落語の様な言語芸術であれば、現代的なテーマを取り上げることで、時代に適応した新たな内容を創作していくことはより容易かもしれない。一方、太鼓、笛、三味線、琴といった日本の伝統的な楽器は、能や日本舞踊の様なそれらの楽器が引き立てる古典芸能とも結びついて、伝統を守ることが重視されがちだ。しかし、長くアメリカで活動してきた3人のアーティスト達は、アメリカの様々な音楽ジャンル、特にジャズの持つ自由な表現力を吸収し、僕達の想像を遥かに超える豊かな音楽表現を作りあげていた。

太鼓も、琴も、三味線も、時に、残像が見えるほどの速さでかき鳴らされ、その躍動感はロックや、先日ニューオーリンズで出会ったジャズを思わせる。それでいて、金子純恵のヴォーカルの中で、「雨」、「風」、「月」、「花」といった言葉で表現されていた様に、渾然一体となったその響きは、その奥底に豊かな日本の四季折々の姿を連想させ、演奏を聴く僕の目には、その先に自らの故郷の自然が浮かんでいた。元々日本文化において、伝統的な楽器や音楽自体が、人間に対して時にやさしく、時に荒々しい自然に対する儀式の意味を強く持っていたことを考え合わせれば、彼らの音楽はあくまで日本の伝統的な音楽的伝統の上に立っているのだろう。

taiko1.jpg

日本語や日本の文化が持つ豊かな「音」。それは容易にデータ化できないものである一方で、かといって他者には理解不可能というわけでもなく、ここヒューストンでも今回、確かにアメリカ人たちの心に響いていた様に思う。アメリカやその文化と対峙する中で、伝統をベースに新たな表現を作り上げようとするアーティストの皆さんの創造力と努力に対しては、僕としては、心の底から感動して、感謝の言葉も見つからないのだ。



絆(キズナ)-東北のために僕達ができること-
LIGHT UP NIPPONというプロジェクトがある。2011年3月11日に起きた東北大震災の5ヵ月後に当たる8月11日、未曾有の地震と津波にみまわれた東北の被災者の方々に、ふたたび明日へと歩み始めるきっかけを作り続けたいという思いのもと、北は岩手から南は福島まで、東北の太平洋岸の町々で一斉に花火を打ち上げようと思い立った若者たちのプロジェクトだ。本来花火が持っていたという「追悼」と「復興」の意味を込められた花火は、その日生きるのが精一杯だった生活の中でも、希望や喜びを感じたいと考える地元の有志の人々の協力により実際に多くの場所で打ち上げられ、たくさんの人々に大きな感動と明日を生きる力を与えたのだった。花火に至るまでの若者たちと地元の関係者の方々の献身的な努力は一本のドキュメンタリー映画としてまとめられている。

今週、ヒューストンの中心部に位置するアジアンソサエティで、そのドキュメンタリー映画「LIGHT UP NIPPON」の上映会が行われた。折りしも週の前半には、CNN等の主要メディアで、福島第一原発からの汚染水の流出が盛んに報道されていて、ここヒューストンでも、東北大震災は、「フクシマ」はまだ終わっていないという印象を与えていた時期だった。防護服に身を包んだ多くの作業員の方々が施設内で働く映像は、2020年のオリンピック開催地の選出を直前に控える中で、「日本」という国全体に対していくばくかのネガティブなイメージを与えていたと思う。

そうしたこともあってか、開始時間になっても、会場には空席が目立っていた。しかし、いざ映画が始まると、会場に集まっていたアメリカ人も日本人も、花火の打ち上げに希望を見出そうとする関係者の方々の情熱に涙を抑えることができなかった。復興作業の中で肉体も精神も追い詰められているはずなのに、花火の伝統を絶やすまいと奔走する人々の行動力は、同じ日本人として誇りに感じずにはいられない。そして、映画の上映の後には、さらに僕の心を打つ出来事が待っていた。

映画の後には、地元福島の福島大学から、インターンシッププログラムに参加してヒューストンに滞在している学生たちによるプレゼンテーションがあったのだ。日本人もいれば、モンゴル、中国、マレーシアからの留学生もいる。彼らは学生とは思えない様な堂々とした振る舞いで、それぞれの視点から、地震の被害の凄まじさ、東北の現状、復興に向けての取り組み等を説明していく。印象深かったのは、中国からの留学生だという女性が、地震の後、日本人がいかに復興に向けて団結していたかを説明していた場面で、彼女はそうした姿を象徴的に現すものとして、「絆(キズナ)」という言葉を挙げ、「コネクション」と訳していた。

震災から早2年半が経ち、特に、大きな被害に見舞われた東北以外に住む人々の間では、日本人であっても、震災の記憶の風化は否定できないと思う。ましてや、日本を遠く離れた海外に住む僕らはどうしても最新の状況から遠ざかってしまう。しかし、それでも僕らに「絆」を保つことはできないのだろうか?

プレゼンテーションの後、つい先程奇麗な発音の英語でプレゼンテーションをやり遂げたばかりの学生の一人と話す機会があった。聞けばまだ20歳になったばかりだという地元福島出身の彼は、今回が初めての海外だということで、10年前の自分と比較してはるかに立派な姿に驚いてしまう。ヒューストンに来て多様な人々がともに暮らす姿を目の当たりにし、いかに自分の世界が広がったかをうれしそうに語る彼に対して、僕は「海外にいる日本人に、何かやってほしいこと、知ってほしいことがありますか?」と聞いてみる。すると、彼はこう答えたのだ。

「今、福島では多くの人々が震災にも原発にも無関心なんです。多くの人々は日々の暮らしに追われ、原発事故はもう終わったかの様に思っている。でも実際には、未だに事故現場で働く多くの作業員の人達がいる。震災も原発事故も終わってはいない。それを知ってほしんです。」

地元の福島の人々ですらそうした傾向があるのなら、他の多くの日本人、更には外国人にとっては震災からの心理的距離はさらに遠くなってしまうだろう。そして、今回の汚染水流出に関する報道の様に、ふとした時にネガティブなイメージが喚起されると、それは震災に対するあいまいな記憶とも結びつき、より大きな不安感を喚起しうる。それであるならば、と僕は思う。それであるならば僕は、海外にいる中でも、震災や原発事故に関する正しい最新状況の把握に努めよう。そして、他の国の人々から問われた時、一人の日本人として、そうした正しい状況を説明できる様にいよう。それが素晴らしいプレゼンを疲労してくれた若者たちに対するせめてもの恩返しだ。

2011年8月11日、東北の各地で同時に打ち上げられた花火は、復興の最中にあった各被災地の人々の心をつなぎ、人々の絆を目に見える形にしてみせた。更に2年の時が経ち、海を超えて東北の今を異国の人々に伝えようとする若者たちがいる。そうしてもたらされた絆を絶やさぬ様にするのが、海外に住む日本人の役目だと思う。

貴重な機会を提供して下さったアジアンソサエティー及び総領事館の皆様、素晴らしいプレゼンを披露してくださった福島大学の学生の皆さん、本当にありがとうございました!

↓LIGHT UP NIPPON公式サイト(ドキュメンタリーは下記の公式サイトからも見れます。)
http://lightupnippon.jp/index.php

Asian society

キング牧師演説50周年に捧げて
今から50年前の今週に当たる、1963年8月28日、アメリカの首都ワシントンで余りに有名な演説がなされた。日本でも「私には夢がある」という一説で知られる、公民権運動の指導者、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師によってなされたあの演説である。今更とは思いつつも、少し引用してみよう。

"I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal. I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.…(中略)… I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.I have a dream today!"

(私には夢がある、つまりいつの日か、この国が立ち上がり、「我々はすべての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる」(アメリカ独立宣言の一節)というこの国の信条を真の意味で実現させることだ。私には夢がある。つまりいつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢です。…(中略)…私には夢がある。私の四人の幼い子ども達が、いつの日か肌の色ではなく、その「性格の内容」によって評価される国に住めるようになるという夢です。今日、私には夢があるのです!)

キング牧師の夢はあれから50年たった現在、どれだけ現実のものになったのだろうか。公民権運動の最盛期だった当時と比べれば、黒人の政治的、経済的、社会的な地位が向上したことは間違いないだろう。オバマ大統領の存在は、その成果の最大の象徴となっている。ただ一方で、今年アメリカでは、無罪判決に対する黒人による全国的な抗議運動を呼び起こしたジョージ・ジマーマン事件が起き、黒人差別は未だ終わっていないという印象を全米に与えているのも事実だ。また、ここヒューストンでも、未だに黒人の多くは地域の低所得者層を形成し、不十分な教育機会によってその状態は再生産されようとしている。

それでも、特に黒人が文化的領域において発揮する圧倒的なエネルギーに真正面から対峙する時、いつの日かキング牧師が夢見た真の平等が実現するのではないかいう楽観的な直感を感じずにはいられない。例えばジャズ。僕は今週末、件のキング牧師の演説でも「戻ろうルイジアナ州へ!」と触れられていた黒人人口が多い州、ルイジアナ州にあるジャズ発祥の地、ニューオーリンズへ向かった。この街は、2000年の国政調査によると、人口の67%が黒人となっている。

1900年代、当時、酒場や売春宿が立ち並んでいたニューオーリンズ一の歓楽街であるバーボン・ストリートで、そうした人々のむき出しの欲望が集まる場所を演奏の部隊としていた黒人やクレオールの演奏家たちが、ジャズという新しい音楽様式を生み出し、瞬く間に白人も含めた多くの層に人気を博すことになる。その後1920年代前半にニューオーリンズの歓楽街が閉鎖されたことで、ルイ・アームストロングなど、著名なジャズのアーティスト達はアメリカ各地に散らばっていったが、このニューオーリンズの街でもジャズの伝統は脈々と息づいていた。

2013年夏。湿地帯のためかヒューストンよりも蒸し暑く感じる気候も、日が落ちるにつれて漸く少しは過ごしやすくなってくる頃、昼間から騒がしかったバーボン・ストリートに、更に鼓膜をつんざく様な大音響が鳴り響く。突如として街頭で始まったジャズバンドの演奏だ。それぞれの楽器がお互いの個性を主張しあう様子は、調和よりは混沌を、そして混沌の中から生まれる強烈なエネルギーを感じさせ、早くも僕は彼らの演奏に引き込まれていく。そうこうしているうちに辺りが暗くなれば、通り中のジャズハウスから思い思いのジャズの演奏が聞こえ始め、全米中から集まった観光客たちの熱気を更に高めていくのだ。

jazz3.jpg

jazz4.jpg

中でもバーボン・ストリートから一本通りを曲がったところにある古びた建物、「プリザベーション・ホール」での演奏は素晴らしかった。他のジャズハウスにおいては、ニューオーリンズ名物のカクテル、ダイキリですっかり酔っ払った観光客たちは、どこまで本気でジャズを聞いているのか定かでなかったりするが、このジャズハウスでは、飲み物や食べ物は一切出されることはなく、訪問客は真正面を向いてジャズバンドの演奏に集中することになる。彼らが演奏するのは、ジャズ発祥の時代から続くディキシーランド・スタイルのジャズだ。

jazz2.jpg

jazz1.jpg

もちろんジャズにしても、音楽としての詳細な体系があるのは重々わかっているのだが、ジャズの本場で、黒人たちの生演奏に向き合う時、特に、伝統的なスタイルの演奏に聞き入る時、僕個人としては、ジャズ発祥当時にそれが先行して存在していた他の音楽のジャンルに対して持っていた自由さ、そしてそこに込められていた黒人の自由への思いを感じずにはいられなかった。冒頭の箇所よりも知られていないが、ワシントン大行進でのキング牧師の演説はこう締めくくられている。

"And when this happens, when we allow freedom to ring, when we let it ring from every village and every hamlet, from every state and every city,we will be able to speed up that day when all of God's children, black men and white men, Jews and Gentiles, Protestants and Catholics, will be able to join hands and sing in the words of the old Negro spiritual, "Free at last! free at last! Thank God Almighty, we are free at last!"

(そうすれば、私たちが自由の鐘を鳴り響かせば、すべての村、すべての集落から、すべての州、すべての街から、自由の鐘を鳴らせば、すべての神の子が、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、プロテスタントもカトリックも、すべての人々が手に手を取ってあの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。「ついに自由だ、ついに自由になれた。全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ」と。)


自由の鐘によって奏でられる音楽が聞こえてはこないだろうか。




プロフィール

タツヒコ

Author:タツヒコ
アメリカのテキサス州ヒューストンに駐在する商社マンです。

カテゴリー

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

ブログ内検索

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

RSSフィード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。