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午後23時、アメリカ南部にて
アメリカのテキサス州ヒューストンに駐在する筆者が当地にて感じた様々な事柄をお伝えします。
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Lady SamuraiとLady Texan / アメリカ南部の中の女性
多分日本では今更な話題なのだと思うけれど、ヒューストンでは日本の書籍はなかなか手に入らないことを前提にして書くと、最近読んだ北川智子さん著の著作「ハーバード白熱日本史教室(新潮新書/2012)」には大いに感銘を受けた。タイトルの元ネタとなっている政治哲学者マイケル・サンデル教授と同じく、現在はハーバード大学で教鞭を取る北川さんであるが、学生時代にハーバード大学に短期留学して日本史の授業を受講した際、その授業で教えられる日本史においては、アメリカ人が大好きなサムライは山ほど出てきても、女性が一切出てこないことに大きなショックを受けたという。そして、「とにかくLady Samuraiは絶対にいたと思う」という強い思いを胸に抱いたのだ。

時を経てハーバード大学の教授となった北川さんが、学生たちに教えるLady Samuraiというアイデアは独創的かつ刺激的だ。彼女は、日本の中世において、武士階級の女性はサムライである男性の影に隠れていたわけではなく、「戦わずに強く生きた女性」として、独特の重要なポジションを持っていたと説く。それは歴史上の女性の女性らしさを強調するのでも、フェミニズムの様に男女同権的な立場を採るわけでもない。あくまでも武士階級の女性という存在に独自のアイデンティティーを見出そうとするのだ。例えば、豊臣秀吉の妻である北政所(大河ドラマ等では通常ねねという愛称で呼ばれる)は、自身が戦に赴くことはなかったものの、彼女の意見は秀吉と言えども尊重せざるを得ず、当時の大坂城やその城下町は秀吉とねねが一対になって統治していたと考えられるという。

世界的に極めて男性的なものとして認識される日本のサムライの世界。そこにLady Samuraiという独自の存在を持ち込もうという北川さんの考えはすごく魅力的だと思う。それでは、翻って僕らが住むここテキサスはどうだろうか。テキサスと言えば、日本のサムライの世界に負けずとも劣らず、伝統的に強い男性のイメージが目立つ土地だ。日本の皆さんには、カウボーイハットとブーツに身を包んだ筋骨たくましい男の姿が思い浮かぶことと思う。1836年の独立からの短い歴史の中においても、独立の英雄、オースティンやサム・ヒューストン将軍等、主な登場人物はほとんど男性だ。現在にしても、共和党ティーパーティーの急先鋒として頭角を現している政治家、テッド・クルスにしても男性である。

それでは、テキサスの歴史において女性はどこにいたのだろうか?まず、文化の世界のおいては、強く生きたテキサスの女性たちが浮かんでくる。

例えば、ドミニク・デ・メニル。第二次大戦の難を逃れてヒューストンに移り住んだ彼女は、夫でシュランベルジェの重役であるジョンとともに、ヒューストンを代表するフィランソロピストとして、美術品の収集と在ヒューストンのアーティスト達の支援を続け、文化都市ヒューストンの形成に大きく貢献した。現在でも彼女の業績は、ヒューストンを代表する私営美術館、メニル・コレクションとして輝きを放ち続けている。また、現代においては、例えばビヨンセ。1981年のヒューストンに生まれた彼女は、幼い頃から圧倒的な音楽的才能を発揮し、最初はデスティニーズ・チャイルドの一員として、後には「強い女性」のイメージを体現したディーバ・ビヨンセとして、大活躍を続けている。

それでは、歴史の主軸である政治の世界ではどうだろうか?その探求は未だ道の半ばだ。ただ先日、件のメニル・コレクションで、テキサスにもきっと強く社会をリードしていった女性、言うならばLady Texanがいただろうと思わせる一枚の絵画に出会った。ベルギー出身の現代アートの巨匠、リュック・タイマンスの絵画、"The Secratary of States"だ。ご覧の通り、ブッシュ政権時のアメリカの国務長官コンドリーザ・ライスの顔を描いた作品であるが、無機質で見る者に漠然とした不安感を感じさせる物が多いタイマンスの作品においては珍しく、表情にも色使いにも力強さが溢れている。

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ライスは同じアメリカ南部でもアラバマ州の生まれではあるが、黒人と女性という二つの差別と戦い続けて、国務長官にまで登りつめた。タイマンスが捉えた彼女の強固な意志は、南部社会という環境でも女性は強く生きられると感じさせ、更に言えばテキサスにもLady Texanはいるはずだと感じさせはしないだろうか。

ここ最近期せずして、日本で働く女性がキャリアを続けることの困難さを感じる出来事が重なっている。今の日本社会は女性が30代、40代にキャリアを続けていくには、絶望的な程に環境が整っていないと感じる。そして、それは日本社会にとって余りに大きな社会的ロスだと思う。一方のアメリカ。ライスと同じく元国務長官であるヒラリー・クリントンが次期大統領選を見据えた政治活動を再開するなど、Lady Americanはますます勢いを増している。現代のLady Samurai達が、女性としてのアイデンティティーを保ちつつ、最大のパワーを発揮する社会を作ることができるか、それは僕らがより真剣に考えなければいけない課題だと思う。
ヒューストンがアメリカで最高の都市である17の理由
ヒューストン在住経験のあるオーストラリア在住の友人より、同じ題名のついたオーストラリアのサイトの記事を教えてもらったので、この場を借りて紹介してみたいと思う。何故オーストラリアのサイトが、これほどヒューストンのことをほめるんだろうと思わなくはない。ただ、その17の理由それぞれを読んでみると、これまでこのブログで自分なりにヒューストンの魅力を紹介しようとしてきた方向性は間違ってなかったと感じさせられるところがあり、いままでヒューストンについて何を語ってきたか振り返りつつ、その理由の一部を紹介してみたい。

↓元の記事
17 Reasons Why Houston Is The Best City in America

その⑤
ヒューストンはニューヨークを除いて、他のどこよりもフォーチューン500に含まれる企業の本社が多い都市である。

「ニューヨークを除いて最も多い」という表現にどれほどの意味があるのかと思わなくはないものの、ヒューストンにはシェールガス革命で盛り上がる石油ガス産業を中心に、世界的大企業の本社が多い。そして、Conoco Phillipps, Marathon Oil, Apacheなどのそうした企業の本社は、弊社のオフィスと僕の自宅があり、一部で「ヒューストンの三鷹」と呼ばれる西のはずれのエリア、Energy Corridorにあるのだ。そう思うと、このエリアに住んでいることが少しは誇らしくなるものの、ここがほとんどの文化的施設から遠いことは間違いなく、現在引越しを検討中ではあるのだけど…。

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その⑥ ヒューストンはNASAの宇宙飛行士達のホームであることを理由に「スペースシティー」と呼ばれる。

スペースシャトル計画が終了し、現在は、連邦政府の閉鎖の影響で多くの職員が休みを取らされている等、逆風も大きいものの、NASAがあることがヒューストンに住むものにとって大きな誇りであることに異論はないだろう。宇宙開発にどれほどの意味があるのかについて議論があることはわかるものの、複雑に利害が絡み合ったこの時代、多くの人々が共通の夢を抱ける数少ない存在の一つが「宇宙」であることは間違いないと思う。

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その⑧ ヒューストンにはとてつもなく多様なエスニック料理、素晴らしいシーフード、そして絶品のバーベキューがある。

その⑦とその⑧については「食」についての記事であり、僕もおいしいラーメン屋がないこと以外はヒューストンの食を高く評価しているのだけど、ここではこの記事が「多様なエスニック料理」の代表としてベトナム料理を挙げていることに注目したい。ベトナム戦争の難民として70年代に大量に移住したベトナム人達は、40年程の懸命な努力によって、文化的にも経済的にもヒューストンで一定の地位を占める様になった。そのことに同じアジア人として敬意を表したいからだ。

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その⑨ アストロズは無視しろ!テキサンズ、ロケッツ、ダイナモはみんな強いぞ!

ヒューストンには、野球のアストロズ、アメフトのテキサンズ、バスケのロケッツ、サッカーのダイナモとアメリカの主要スポーツのホームチームが全て揃っている。そして、野球のアストロズ以外はみんな強い。オーストラリアのこの記事でさえネタにするほど、アストロズの弱さは有名だ。しかし、アストロズには、様々な人がスタジアムに集い、一つの熱狂を共有するというスポーツが持つ公共的意義を思い出させてくれたという意味で感謝している。

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その⑬ ヒューストンには、ロスコ・チャペルの様な世界的に有名で独特な美術館・博物館や文化財がある。

誰が何と言おうと、僕にとってはヒューストンは何より「文化都市」である。20世紀アメリカ美術が残した奇跡ともいえるマーク・ロスコのロスコ・チャペルを始め、現代アートならメニル・コレクション、装飾芸術ならヒューストン美術館、更に視覚芸術としてのOrange ShowやBeer Can Houseなど、アメリカの他の都市に負けないだけの多くのジャンルのアートが揃っている。これからも少しでも多くの人にヒューストンアートの魅力を知ってもらえる様に、探求を続けていきたい。

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その⑯ ヒューストンは最近ニューヨークを抜き、アメリカで民族的、人種的に最も多様な都市となった。

そして、である。アメリカの中で、世界の中で、ヒューストンという場所をこれからの世界の将来を占う上で、とても貴重な存在にしているのはこの多様性である。石油ガス産業の隆盛もあり、ヒューストンには過去10数年で海外から多くの移民が流入し、ついに最近ヒューストンにおいてアングロサクソン系住民はマイノリティーとなった。(人口的にはラティーノの方が多い。)そうした経緯は、ヒューストンが誇る名門大学ライス大学のクリンバーグ教授のチームが「INTERESTING TIMES」という興味深い映画にまとめている。個人的には、この圧倒的な多様性からは、今後の日本社会が学べることもあると思っている。

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日本では知られていないけれど、アメリカ第4の都市であり、急速な発展を続け、様々な魅力にあふれた都市ヒューストン。僕個人としても、アメリカで最高の都市だと思っています。これからもこの都市の素晴らしさ、この都市が直面している課題やそれに立ち向かう人々の姿を、日本語で発信し続けていきたいと思います!

写真はヒューストンの玄関口ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港で、訪問者を迎える宇宙服に身を包んだロングホーン
写真 (8)

過去の終わりと現在の始まり / ヒューストンの中のインド
もう10年も前のことになるけれど、二十歳の時、思うところあって、インド、パキスタン、ネパールといった南アジアを何ヶ月か当てもなく放浪していたことがある。当時の僕は、考古学や古い時代の美術品が大好きだったこともあり、そうした歴史的遺産に溢れたインドは憧れの場所だった。また、ヒンドゥー教の聖地バナーラスを訪れた日本人旅行者達を描いた遠藤周作の名作「深い河」の影響もあって、ヒンドゥーの伝統を忠実に守り、まるで時が止まった様なインドに行けば人生が変わるんじゃないかといった期待も持っていた。

しかし、ニューデリーから始まり、リシュケーシュ、アーグラー、バナーラス、カルカッタ、プリーと悠久の大河ガンジス川に沿ってインドの歴史的名所を巡っていくうちに、僕の中には言い様のない違和感が芽生えていった。そして、人で溢れた北インドに少し食傷気味になり、デカン高原を越えて、西インドの近代的都市ムンバイまで来た時、その思いは決定的になった。そこで見たのは、近代的ビル群であり、スーツをしっかりと着こなすと同時に頭はかっちりターバンで固めたビジネスマンであり、日本と変わらずおしゃれに着飾った若者達だった。

ある夜、仲良くなったそんなムンバイっ子の若者の一人に、自分が思っていたインドと実際に体験したインドとの違いがいかに大きかったかを話してみた。すると彼はこんなことを言ったのだ。「いったい君はインドに何をしにきているんだい?もちろん永遠に時が止まった世界なんてここにはないさ。ここにあるのは、今まさに急速に発展しようとしている国。全てがすごい勢いで変わっていて、近い将来、アメリカや日本を追い越そうとする国なんだよ!」

今思えば、10年前のインドの若者としては典型的な、気持ちのいい自信に溢れた発言だったと思うが、当時の僕には衝撃的で心の底からはっとさせられる思いだった。それまで僕は、歴史的遺跡や古い美術品、総じて「過去」に目を向けていたけれど、その時、自分が最も「過去」を守っていると考えていたインドですら、多くの人たちは「未来」に向かってまっすぐに進んでいたことを実感させられたのだ。僕にとっては、その時が「過去」から離れて、「未来」を見据えながら、「現在」を生きようとし始めた瞬間だった様に思う。

そして10年後の今。幸いまだ日本を追い越すには至っていないけれど、インドは豊富な人口を背景に急速な経済発展を続けており、インドを「時が止まった国」とイメージする人はもうほとんどいないだろう。本国の勢いを背景に、ここアメリカにおいても、インド人移民は、教育レベルの高い歓迎されるべき移民として、広く管理職や専門職に従事しており、ヒューストンでも多くのインド人に出会う。特に最近は、ビジネスにおいてもインド人の取引先と関わることが多いのだが、一見こちらに理解を示している様に見えて、次第に自分の要求を押し出して行き、気づけばクリティカルな部分で彼らの要求を受け入れざるを得ない状況に導かれている彼らの交渉力には、毎回舌を巻いてしまう。

またヒューストンには、そうした豊富なインド移民人口に支えられて、良質なインド料理店が点在しており、インド料理好きにはたまらない場所だ。社会人になってからの6年半を過ごした東京の港区芝地区も、IT企業用の人材としてインド人住民が多く、インド料理店も多かったが、ヒューストンの味の水準はレベルが違うと思っている。特に、ヒューストンの南西、高速道路59号線沿いには、インド料理店や、インド系の貴金属店、服飾店などが立ち並び、ちょっとしたインド人街の様になっているエリアがあり、そこには、北インド、南インド、ベンガル、パキスタン、ネパールといった、南アジアのそれぞれの地域の味を代表するレストランに出会える。

特に、僕のお気に入りは、そのインド人街の中心に位置し、特にインド料理店が多く、駐車場まで香辛料の香りが漂っているモールにある「ヒマラヤ」というレストラン。ヒマラヤという名前だけれど、料理の内容はパキスタンや西インド系の料理や味付けが多い。そしてぜひ注文してほしいのが、下に写真を掲載したヤギ肉のビリヤーニー。香辛料と米、肉と野菜を一緒に炊き込んだ料理だが、いつもレジにどかっと腰を下ろしている店主によれば、この店の名物料理らしい。

日本人がインド料理といえば、真っ先にイメージするのはカレーだろうが、ビリヤーニーもインド全域、特に西インドでは非常に典型的な料理で、16世紀に中東から来たイスラム教徒がインドを征服し、ムガル帝国を建国した時からインドに広がった料理だ。ただし、ビリヤーニーはその後、インドやパキスタンの各地域で、食材や調理法が異なる独自の複雑な発展を遂げ、今では世界的に南アジアの料理だと考えられている。料理についても、インドの歴史は時が止まった歴史ではなかったというわけだ。

ビリヤーニーを食べながら、着々と変化を遂げていったインドの過去を感じ、改めて僕は「現在」を生きようと思っている。

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異空間としての劇場とヒューストンバレエ
僕が大好きな映画の一つに、ラブコメディーの巨匠ウッディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』という映画がある。映画脚本家で初めての小説を執筆中の主人公は、婚約者及びその両親とパリを訪れる。憧れのパリに興奮する一方、婚約者やその友人の気取った会話に違和感を感じた主人公が、酔いつぶれて深夜のパリの街角を歩いていると、目の前に一台のアンティークカーが泊まる。その車には時代遅れの服装をした男女が乗っており、パーティーに行くという彼らに誘われるがままに車に乗り込むと、たどり着いた先は主人公が愛して止まない1920年代のパリだった。

連日のパーティーで主人公は憧れのフィッツジェラルドやヘミングウェイ、ジャン・コクトー達と出会いすっかり舞い上がるが、ある夜、パブロ・ピカソと当時の彼の愛人アドリアナと出会い、主人公はアドリアナに一目惚れする。しかし、主人公にとっては黄金時代である1920年代も、アドリアナにとっては退屈な色褪せた時代であり、二人は更にアドリアナの憧れであるベル・エポック期のパリに迷い込む。そこで伝説のレストラン「マキシム」を訪れた二人が出会ったのは、ロートレック、ゴーギャン、ドガといった巨匠達だった。

物語の結末はご自身の目で確かめて欲しいのだが、ウッディ・アレン一流のエスプリの効いたセリフ回しと、パリを愛した文豪や巨匠たちに実際に会えるという夢の様なストーリーの背後にあるのは、異空間としてのパリ、不満の多い現実から隔絶された理想の世界という構造である。1920年代やベル・エポック期のパリは無理としても、つかの間だけでもそんな異空間に浸ることはできないものだろうか。この週末、その答えは劇場(シアター)にあると感じさせる出来事があった。

この週末、ヒューストン・バレエは自身の劇場であるウォーサム・シアターで「メリー・ウィドウ」を公演した。この演目は、元々は20世紀初めにウィーンで書かれたオペラだが、後にバレエのストーリーとして再構成され、更に今回、ヒューストン・バレエ流のアレンジが加えられて上演されたものだ。架空の国家ポンテヴェドロの命運を握る程の財産を持った未亡人、ハンナのパリでの再婚相手探しをベースにストーリーは進むのだが、どの場面もダンスとその舞台設定は華やかそのものだった。

第一幕はポンテヴェドロの大使館でのフランス貴族趣味に満ちたダンスパーティー。第二幕では、パリ郊外のハンナの別荘を舞台に、スラブ風の祖国の民族衣装に身を包んだ一行が、素朴で軽快なポンテヴェドロの伝統的なダンスを披露する。そして、第三幕では、「ミッドナイト・イン・パリ」で主人公とアドリアナも迷い込んだベル・エポック期のレストラン「マキシム」を舞台に、バレリーナ達が巧みな足使いでスカートを捲り上げるカンカンダンスを踊り上げる。その刺激的でいて上品な様子は、それこそ当時のフレンチカンカンを愛したロートレックの絵画の様だった。

作り込まれた豪華な衣装や舞台装置と、たゆまぬ練習の成果としてのダンサー達の洗練された身体の動きに浸り、僕は数時間、ここがヒューストンであることを忘れ、日常を離れたどこか夢の世界に迷い込んだ様に感じていた。ただ一方で、劇場の外でもお会いしたことのある日本人ダンサーの方々の活躍が、この空間と現実とを結びつける。ヒューストンバレエには現在四名の日本人ダンサーの方が在籍しているが、今回の公演では彼と彼女達の見せ場も多く盛り込まれていた。そして公演の後、友人達に誘ってもらって、その日本人ダンサーの皆さんと食事を供にする機会を得たのだが、その席で一人のダンサーの方が、こんなことを語っていた。

「劇場は、ダンサー、オーケストラ、裏方の人々、そして観客自身が作り上げる一つの異空間なんです。「メリー・ウィドウ」の様なクラシックな作品でも、その日その時の時点での、ダンサーの経験や体調、気分によって生まれるパフォーマンスは異なるし、観客の側にしても、その日の気持ちや、一緒に訪れた人が誰かでも感じ方は異なるでしょう。劇場を訪れた人たちが上映中の数時間で、この一つの空間に思い思いの意味を見つけてくれればいいんです。」

そのダンサーの人も言っていたのだが、ヒューストンは残念ながらパリとは違って、街角を歩いていればたまたま文化的な事象に出会うといった場所ではない。(そもそも車社会のヒューストンで「街角を歩く」といったことはそうそうないのだが…)それでも、自分の手と足を使って探し続けていれば、このヒューストンでも、きっといくつもの魅力的な異空間に出会うことだろう。

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音としての日本文化の継承者たち
情報化社会という言葉自体も死語になりつつある程、世界のほとんどの事象が情報としてデータ化され、瞬時に世界に共有されていく現代という時代。近い将来、日本語という言葉も他の言語にあっという間に翻訳され、日本の文化にしても、他の文化との相対的な差異が明確に表現される様になり、その意味で、それぞれの文化が、相互に置き換え可能だと考えられる時代が来るかもしれない。ただそれでも僕は、文化には未だ情報化になじまないいくつかの要素が存在すると思う。その一つが「音」という要素だ。

もちろん「音」にしても、今ではデジタルデータとして、いくらでも電子的に保存、共有されうる。しかし、「音」としての文化の専門家である、「音」のアーティスト達の生のパフォーマンスを目の当たりにする時、そこには、デジタルデータとしては拾いきれない、より豊かで複雑なものが立ち現れている様に感じられる。ましてや、その表現者たちが、過去から受け継いだ文化の伝統に、他の文化から摂取した要素を加えて、新たな表現を作り出そうとしているのであればなおさらだ。そのことを感じさせる二つのイベントが、今週末ヒューストンで開かれていた。

一つは英語落語。カナダ人として生まれた桂三輝(サンシャインと読みます)氏は、日本の古典芸能に興味を持って1999年に来日した後、特に創作落語の魅力に魅せられて、5年前に創作落語の大家である当時の桂三枝(現在の六代目桂文枝)師匠に弟子入りをした。師匠が「黒」と言えば白いものでも「黒」だと思わなければならないという絶対的な上下関係の伝統の中で厳しい修行に耐えてきたのは、いつか師匠の創作落語を英訳し、英語落語として北米で演じてみたいという夢があったからだった。その念願がかなって今回、カナダ・アメリカの各都市を回るというツアーが実現し、今週末にヒューストンに来たというわけだ。

二日間にわたって開かれた講演には、アメリカ人を中心に多くの観客が集まり、最初に古典落語、次に創作落語を英語で披露するという二部構成で行われた。舞台芸術としての落語には、手の動き、体の動き等の視覚的部分もその不可欠の要素を占めている。ただやはり、「話家」という落語家の別名が示す様に、落語の魅力の根幹は、「音声」として表現される言葉の面白さにあるだろう。その点、日本語で表現されることを狙って作られた創作落語が英訳された時に、その面白さが保たれるのだろうかという不安があったが、実際には会場は終始、笑いの渦に包まれていた。

その面白さの理由はおそらく、自身の体験もベースにして、英語スピーカーにとっての音声としての日本語の面白さに焦点を当てているからだと思う。例えば、日本語には57種類の感謝(gratitude)を表す表現があると切り出す。そして、「ありがとう」「どうもありがとう」「どうもありがとうございます」と音声表現を例示していき、どうも日本語というのは音声が長ければ長いほど、感謝の意味合いが強いらしいと展開していく。そして、最上級の感謝の表現は、とても長い「音」として表現され、日本語の意味がわからない観客も、その長く大層な響きからとても深い感謝が表現されているんだろうと期待する。しかし、オチを聞いてみればその表現とは、「あなたの御厚意に対しては感謝の言葉もございません」であり、英語にしてみれば、何のことはない、"I have no word to show my gratitude"というわけだ。日本語の複雑な音声と、英訳された時の的外れな意味のギャップを絶妙に捉えてはいないだろうか。

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もう一つがより純粋な「音」としての文化である音楽。落語講演が終わった夜、ロサンゼルスを中心に活動する太鼓奏者であるショージ・亀田、ニューヨークを中心に活動する篠笛と太鼓の奏者である渡辺薫、同じくニューヨークを中心に活動する三味線と琴の奏者兼ヴォーカリストである金子純恵のトリオによる演奏会が行われた。

落語の様な言語芸術であれば、現代的なテーマを取り上げることで、時代に適応した新たな内容を創作していくことはより容易かもしれない。一方、太鼓、笛、三味線、琴といった日本の伝統的な楽器は、能や日本舞踊の様なそれらの楽器が引き立てる古典芸能とも結びついて、伝統を守ることが重視されがちだ。しかし、長くアメリカで活動してきた3人のアーティスト達は、アメリカの様々な音楽ジャンル、特にジャズの持つ自由な表現力を吸収し、僕達の想像を遥かに超える豊かな音楽表現を作りあげていた。

太鼓も、琴も、三味線も、時に、残像が見えるほどの速さでかき鳴らされ、その躍動感はロックや、先日ニューオーリンズで出会ったジャズを思わせる。それでいて、金子純恵のヴォーカルの中で、「雨」、「風」、「月」、「花」といった言葉で表現されていた様に、渾然一体となったその響きは、その奥底に豊かな日本の四季折々の姿を連想させ、演奏を聴く僕の目には、その先に自らの故郷の自然が浮かんでいた。元々日本文化において、伝統的な楽器や音楽自体が、人間に対して時にやさしく、時に荒々しい自然に対する儀式の意味を強く持っていたことを考え合わせれば、彼らの音楽はあくまで日本の伝統的な音楽的伝統の上に立っているのだろう。

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日本語や日本の文化が持つ豊かな「音」。それは容易にデータ化できないものである一方で、かといって他者には理解不可能というわけでもなく、ここヒューストンでも今回、確かにアメリカ人たちの心に響いていた様に思う。アメリカやその文化と対峙する中で、伝統をベースに新たな表現を作り上げようとするアーティストの皆さんの創造力と努力に対しては、僕としては、心の底から感動して、感謝の言葉も見つからないのだ。





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Author:タツヒコ
アメリカのテキサス州ヒューストンに駐在する商社マンです。

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