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午後23時、アメリカ南部にて
アメリカのテキサス州ヒューストンに駐在する筆者が当地にて感じた様々な事柄をお伝えします。
06 | 2019/07 | 08
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絆(キズナ)-東北のために僕達ができること-
LIGHT UP NIPPONというプロジェクトがある。2011年3月11日に起きた東北大震災の5ヵ月後に当たる8月11日、未曾有の地震と津波にみまわれた東北の被災者の方々に、ふたたび明日へと歩み始めるきっかけを作り続けたいという思いのもと、北は岩手から南は福島まで、東北の太平洋岸の町々で一斉に花火を打ち上げようと思い立った若者たちのプロジェクトだ。本来花火が持っていたという「追悼」と「復興」の意味を込められた花火は、その日生きるのが精一杯だった生活の中でも、希望や喜びを感じたいと考える地元の有志の人々の協力により実際に多くの場所で打ち上げられ、たくさんの人々に大きな感動と明日を生きる力を与えたのだった。花火に至るまでの若者たちと地元の関係者の方々の献身的な努力は一本のドキュメンタリー映画としてまとめられている。

今週、ヒューストンの中心部に位置するアジアンソサエティで、そのドキュメンタリー映画「LIGHT UP NIPPON」の上映会が行われた。折りしも週の前半には、CNN等の主要メディアで、福島第一原発からの汚染水の流出が盛んに報道されていて、ここヒューストンでも、東北大震災は、「フクシマ」はまだ終わっていないという印象を与えていた時期だった。防護服に身を包んだ多くの作業員の方々が施設内で働く映像は、2020年のオリンピック開催地の選出を直前に控える中で、「日本」という国全体に対していくばくかのネガティブなイメージを与えていたと思う。

そうしたこともあってか、開始時間になっても、会場には空席が目立っていた。しかし、いざ映画が始まると、会場に集まっていたアメリカ人も日本人も、花火の打ち上げに希望を見出そうとする関係者の方々の情熱に涙を抑えることができなかった。復興作業の中で肉体も精神も追い詰められているはずなのに、花火の伝統を絶やすまいと奔走する人々の行動力は、同じ日本人として誇りに感じずにはいられない。そして、映画の上映の後には、さらに僕の心を打つ出来事が待っていた。

映画の後には、地元福島の福島大学から、インターンシッププログラムに参加してヒューストンに滞在している学生たちによるプレゼンテーションがあったのだ。日本人もいれば、モンゴル、中国、マレーシアからの留学生もいる。彼らは学生とは思えない様な堂々とした振る舞いで、それぞれの視点から、地震の被害の凄まじさ、東北の現状、復興に向けての取り組み等を説明していく。印象深かったのは、中国からの留学生だという女性が、地震の後、日本人がいかに復興に向けて団結していたかを説明していた場面で、彼女はそうした姿を象徴的に現すものとして、「絆(キズナ)」という言葉を挙げ、「コネクション」と訳していた。

震災から早2年半が経ち、特に、大きな被害に見舞われた東北以外に住む人々の間では、日本人であっても、震災の記憶の風化は否定できないと思う。ましてや、日本を遠く離れた海外に住む僕らはどうしても最新の状況から遠ざかってしまう。しかし、それでも僕らに「絆」を保つことはできないのだろうか?

プレゼンテーションの後、つい先程奇麗な発音の英語でプレゼンテーションをやり遂げたばかりの学生の一人と話す機会があった。聞けばまだ20歳になったばかりだという地元福島出身の彼は、今回が初めての海外だということで、10年前の自分と比較してはるかに立派な姿に驚いてしまう。ヒューストンに来て多様な人々がともに暮らす姿を目の当たりにし、いかに自分の世界が広がったかをうれしそうに語る彼に対して、僕は「海外にいる日本人に、何かやってほしいこと、知ってほしいことがありますか?」と聞いてみる。すると、彼はこう答えたのだ。

「今、福島では多くの人々が震災にも原発にも無関心なんです。多くの人々は日々の暮らしに追われ、原発事故はもう終わったかの様に思っている。でも実際には、未だに事故現場で働く多くの作業員の人達がいる。震災も原発事故も終わってはいない。それを知ってほしんです。」

地元の福島の人々ですらそうした傾向があるのなら、他の多くの日本人、更には外国人にとっては震災からの心理的距離はさらに遠くなってしまうだろう。そして、今回の汚染水流出に関する報道の様に、ふとした時にネガティブなイメージが喚起されると、それは震災に対するあいまいな記憶とも結びつき、より大きな不安感を喚起しうる。それであるならば、と僕は思う。それであるならば僕は、海外にいる中でも、震災や原発事故に関する正しい最新状況の把握に努めよう。そして、他の国の人々から問われた時、一人の日本人として、そうした正しい状況を説明できる様にいよう。それが素晴らしいプレゼンを疲労してくれた若者たちに対するせめてもの恩返しだ。

2011年8月11日、東北の各地で同時に打ち上げられた花火は、復興の最中にあった各被災地の人々の心をつなぎ、人々の絆を目に見える形にしてみせた。更に2年の時が経ち、海を超えて東北の今を異国の人々に伝えようとする若者たちがいる。そうしてもたらされた絆を絶やさぬ様にするのが、海外に住む日本人の役目だと思う。

貴重な機会を提供して下さったアジアンソサエティー及び総領事館の皆様、素晴らしいプレゼンを披露してくださった福島大学の学生の皆さん、本当にありがとうございました!

↓LIGHT UP NIPPON公式サイト(ドキュメンタリーは下記の公式サイトからも見れます。)
http://lightupnippon.jp/index.php

Asian society

キング牧師演説50周年に捧げて
今から50年前の今週に当たる、1963年8月28日、アメリカの首都ワシントンで余りに有名な演説がなされた。日本でも「私には夢がある」という一説で知られる、公民権運動の指導者、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師によってなされたあの演説である。今更とは思いつつも、少し引用してみよう。

"I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal. I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.…(中略)… I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.I have a dream today!"

(私には夢がある、つまりいつの日か、この国が立ち上がり、「我々はすべての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる」(アメリカ独立宣言の一節)というこの国の信条を真の意味で実現させることだ。私には夢がある。つまりいつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢です。…(中略)…私には夢がある。私の四人の幼い子ども達が、いつの日か肌の色ではなく、その「性格の内容」によって評価される国に住めるようになるという夢です。今日、私には夢があるのです!)

キング牧師の夢はあれから50年たった現在、どれだけ現実のものになったのだろうか。公民権運動の最盛期だった当時と比べれば、黒人の政治的、経済的、社会的な地位が向上したことは間違いないだろう。オバマ大統領の存在は、その成果の最大の象徴となっている。ただ一方で、今年アメリカでは、無罪判決に対する黒人による全国的な抗議運動を呼び起こしたジョージ・ジマーマン事件が起き、黒人差別は未だ終わっていないという印象を全米に与えているのも事実だ。また、ここヒューストンでも、未だに黒人の多くは地域の低所得者層を形成し、不十分な教育機会によってその状態は再生産されようとしている。

それでも、特に黒人が文化的領域において発揮する圧倒的なエネルギーに真正面から対峙する時、いつの日かキング牧師が夢見た真の平等が実現するのではないかいう楽観的な直感を感じずにはいられない。例えばジャズ。僕は今週末、件のキング牧師の演説でも「戻ろうルイジアナ州へ!」と触れられていた黒人人口が多い州、ルイジアナ州にあるジャズ発祥の地、ニューオーリンズへ向かった。この街は、2000年の国政調査によると、人口の67%が黒人となっている。

1900年代、当時、酒場や売春宿が立ち並んでいたニューオーリンズ一の歓楽街であるバーボン・ストリートで、そうした人々のむき出しの欲望が集まる場所を演奏の部隊としていた黒人やクレオールの演奏家たちが、ジャズという新しい音楽様式を生み出し、瞬く間に白人も含めた多くの層に人気を博すことになる。その後1920年代前半にニューオーリンズの歓楽街が閉鎖されたことで、ルイ・アームストロングなど、著名なジャズのアーティスト達はアメリカ各地に散らばっていったが、このニューオーリンズの街でもジャズの伝統は脈々と息づいていた。

2013年夏。湿地帯のためかヒューストンよりも蒸し暑く感じる気候も、日が落ちるにつれて漸く少しは過ごしやすくなってくる頃、昼間から騒がしかったバーボン・ストリートに、更に鼓膜をつんざく様な大音響が鳴り響く。突如として街頭で始まったジャズバンドの演奏だ。それぞれの楽器がお互いの個性を主張しあう様子は、調和よりは混沌を、そして混沌の中から生まれる強烈なエネルギーを感じさせ、早くも僕は彼らの演奏に引き込まれていく。そうこうしているうちに辺りが暗くなれば、通り中のジャズハウスから思い思いのジャズの演奏が聞こえ始め、全米中から集まった観光客たちの熱気を更に高めていくのだ。

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中でもバーボン・ストリートから一本通りを曲がったところにある古びた建物、「プリザベーション・ホール」での演奏は素晴らしかった。他のジャズハウスにおいては、ニューオーリンズ名物のカクテル、ダイキリですっかり酔っ払った観光客たちは、どこまで本気でジャズを聞いているのか定かでなかったりするが、このジャズハウスでは、飲み物や食べ物は一切出されることはなく、訪問客は真正面を向いてジャズバンドの演奏に集中することになる。彼らが演奏するのは、ジャズ発祥の時代から続くディキシーランド・スタイルのジャズだ。

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もちろんジャズにしても、音楽としての詳細な体系があるのは重々わかっているのだが、ジャズの本場で、黒人たちの生演奏に向き合う時、特に、伝統的なスタイルの演奏に聞き入る時、僕個人としては、ジャズ発祥当時にそれが先行して存在していた他の音楽のジャンルに対して持っていた自由さ、そしてそこに込められていた黒人の自由への思いを感じずにはいられなかった。冒頭の箇所よりも知られていないが、ワシントン大行進でのキング牧師の演説はこう締めくくられている。

"And when this happens, when we allow freedom to ring, when we let it ring from every village and every hamlet, from every state and every city,we will be able to speed up that day when all of God's children, black men and white men, Jews and Gentiles, Protestants and Catholics, will be able to join hands and sing in the words of the old Negro spiritual, "Free at last! free at last! Thank God Almighty, we are free at last!"

(そうすれば、私たちが自由の鐘を鳴り響かせば、すべての村、すべての集落から、すべての州、すべての街から、自由の鐘を鳴らせば、すべての神の子が、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、プロテスタントもカトリックも、すべての人々が手に手を取ってあの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。「ついに自由だ、ついに自由になれた。全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ」と。)


自由の鐘によって奏でられる音楽が聞こえてはこないだろうか。


INTERESTING TIMES
皆さんはアメリカのヒューストンと聞いて、何を思い浮かべるでしょうか?NASAのある街、石油ガス産業の街、カウボーイのいる街、人によって印象は様々かと思います。ここに住んでいる僕らからしてみても、シェールガスブームで沸き返る街、アメリカ最大の先端医療産業を抱える街、アメリカ3大スポーツのチームが全てある街、主要な舞台芸術の劇団が全て揃っている街、はたまた、全米で最悪の渋滞に悩んでいて公共交通機関が不足している街など、人によって色々な感じ方を持っていることでしょう。

でも、ここヒューストンには、表面に見えるそんな姿とはまた違った一面もあるのです。ヒューストンが誇る名門大学であるライス大学のキンダー都市研究所に所属する社会学者、ステファン・クリンバーグ教授の研究チームは、1982年から30年間に渡り、ヒューストンの経済的、そして人口動態的な変化を追い続け、それによってより深いレベルでヒューストンが抱える課題、そして、その裏返しとしての可能性を明らかにしようとしました。その研究成果を一本の短い映画にまとめたのが、「INTERESTING TIMES」です。詳しくはぜひ映画本編を見て頂きたいのですが、何かのきっかけになる様、ここで彼らの問題意識を簡単に紹介したいと思います。

一つ目の問題は高等教育へのアクセスと、貧富の差の拡大という問題。20世紀初め以降のヒューストンは、農業、牧畜業と新しい産業としての石油産業に支えられた街でした。かつて、ヒューストンの人々は、石油も含めた大地からの恵みに頼っていれば、自らの生計を立てることができました。しかし、現代に近づくにつれて産業が高度化し、単純労働については発展途上国に移転されていく中で、いつのまにかヒューストンにはブルーカラーの労働機会が無くなっていったのです。そして、高度情報化する社会で有利な職に就くためには、高等教育へのアクセスが決定的に重要になっており、教育機会を持てた人々と持てなかった人々の間で、加速度的に貧富の差が広がっているのです。

二つ目の問題は、高度産業に従事する人々をヒューストンに定着させるために、いかにこの街のQOL(Quality Of Life)を確保していくとかという問題。いかにシェールガスブームに沸きかえっているとはいえ、高度情報化するアメリカ社会の中で、ヒューストンの産業も決して石油ガス一辺倒というわけではなく、バイオ、ナノ、遺伝子等の先端作業が発達してきており、全米最大の医療産業コンプレックスであるヒューストン・メディカルセンターはその象徴です。そうした先端産業に従事する人々は、非常に優秀な頭脳を持ち、世界最高峰の教育を受けた、本来世界のどこででも働ける人材。ヒューストンが真に住みやすい(QOLが確保された街)でなければこの街に定着してくれず、それはこれからのヒューストン経済を左右する問題です。そこで、ヒューストンの産業界は、この街に100万本もの木を植え、沼地を公園に変え、最終的にヒューストンを緑溢れる街にしようというプロジェクトを始めたのです。

三つ目の、そしておそらく最も深刻な問題は、ヒューストンの民族構成の劇的変化という問題。20世紀初頭にこの街で石油産業が始まって以来、ヒューストンは長らくアングロサクソン系の白人が圧倒的多数を占める典型的な南部の街でした。しかし、1960年代の移民法改正、そして1980年代初めの石油ブームの終焉を経て、ヒューストンにはラテンアメリカ、アフリカ、アジアから多数の移民が次々とやって来ました。結果として、現在のヒューストンの人口構成としては、ラティーノの人口が白人よりも多く、その意味ではヒューストンでは今、アングロサクソン系の白人も含めた全ての民族集団が、アメリカ的文脈における「マイノリティ」なのです。そして、そうして増えた移民は必ずしもヒューストン経済に平等に参加できるわけではなく、特に、ラティーノと黒人の流入者の多くは貧困にあえいでいます。そして、アングロサクソン系の人口は日本に並ぶ様な極度の高齢化を迎えつつあり、ヒューストンの社会がこれから発展していけるのかは、こうした新たな移民人口をどう包摂し、誰もにとって機会均等な社会を作っていけるかにかかっているのです。

こうして、一歩間違えれば社会を揺るがしかねない複雑な問題を抱えているヒューストン。しかし、クリンバーグ教授は、中国語の「危機」という漢字を挙げて、今のヒューストンがアメリカの他のどこの時代、どこの都市よりも、「INTERESTING TIMES」なのだと締めくくります。なぜそうなのかはぜひ映画を見て確かめて頂ければと思います。

本日、ヒューストン在住の日本人、日系人の皆さんに集まって頂き、拙いながらもこの映画の上映会を開かせて頂きました。今日という日が、皆さんがヒューストンという街をより深く知るきっかけになっていれば、僕にとってそれ以上の喜びはありません。本当にありがとうございました!

↓INTERESTING TIMESへのリンク
http://kinder.rice.edu/InterestingTimes/
テキサスの2つの勝利の記憶
決して悪気はなかったのだと思うのだけど、最近アメリカ人の知人から聞いた忘れられない話がある。数年前の今週、彼は出張で深い関係を有する企業のある日本に滞在していた。ある日の朝、滞在先のホテルから出張先の日本企業のオフィスに向かうタクシーの中で彼は、アメリカで彼の帰りを待つ奥さんから、その日がとある記念日であることを祝うテキストメッセージを受け取る。それに気を良くした彼は、日本人の同僚ともその喜びを分かち合おうと、オフィスに着いた瞬間こう叫んだ。「ハッピー・ヒロシマ!」その直後、凍りついた表情をしている同僚たちを見て、彼は自分が日本にいることを思い出したという。

思えば今週は僕にとって、アメリカで8月6日と9日を迎えた最初の年だった。日本からのニュースでは、今年も原子爆弾の犠牲者に対する慰霊の様子が報道され、改めて、多くの民間人の犠牲者を出した戦争の恐ろしさと愚かさを再認識させられる。しかし一方で、冒頭のアメリカ人の知人の話は、この歴史的な日に関する一つの違った意味づけを提起する。それは、ヒロシマとナガサキへの原子爆弾の投下は、太平洋戦争におけるアメリカの最終的勝利にとっては、日本の戦争継続の意思を打ち砕いたという意味で、決定的な重要性を持っていたということだ。古今東西の様々な戦争において、その出来事が自分たちの大きな勝利に深く結びついていた時には、その出来事が持っていた他の側面から勝利という側面のみが結晶化される形で、「勝利の記憶」として後世まで語り継がれていくことがある。その意味では、ここヒューストンにも、「勝利の記憶」に関する一つの大きなモニュメントが立っている。

ヒューストンの中心部から見て東、広大な港湾地帯の一角にあるサンジャシントに、天空に突き刺さる様に大きなオベリスクが建っている。以前紹介したバーネット・ニューマンの作品、「壊れたオベリスク」とは対照的に、それが記念するものに関する絶対的な自信を示すかのようにオベリスクはどこまでもまっすぐに立ち、その最上部にはテキサスの象徴である一つ星「ローン・スター」が輝いている。テキサスらしい話ではあるが、この記念碑本体の高さは、ワシントンDCにあるワシントン記念塔と同じであるものの、最上部のローンスターのおかげで世界一高いモニュメントとみなされているのだという。

このモニュメントは、テキサス独立戦争中の1836年、サム・ヒューストン将軍率いるテキサス反乱軍に決定的な勝利をもたらした「サンジャシントの戦い」を記念して建てられたものだ。19世紀前半、同じく今はテキサスの主要都市の名前になっているスティーブン・オースティンに率いられたアメリカ人たちはテキサスへの入植を進めていき、当時テキサスを統治していたスペインとも契約に基づいた平和的な関係を維持していた。しかし、メキシコ独立戦争の結果として新しいテキサスの統治者となったメキシコは、サンタ・アナ将軍のもと、極めて中央集権的な独裁を進め、テキサスにおけるアメリカ人入植者たちの活動に様々な制約を加えていく。両者の不和は1835年にアメリカ人入植者による革命という形の戦争に結実し、初期の段階こそアメリカ人革命軍が勝利を収めるものの、次第に中央からの援軍が合流し圧倒的に戦力に勝るメキシコ軍に対して、革命軍は後退を余儀なくされていく。

特にメキシコ独立の英雄であるサンタ・アナ将軍自身が反乱軍の鎮圧に加わって以降は、サンアントニオにおける有名な「アラモ砦の戦い」を含めてメキシコ軍の勝利が続き、アメリカ人革命軍は長い逃亡の末、ヒューストン郊外のガルベストンまで追い詰められていた。しかし、ここで奇跡が起きる。戦力では圧倒的に勝るといはいえ、長い遠征の疲労が限界に達していたメキシコ軍に対して、アメリカ人革命軍はこのサンジャシントで捨て身の攻勢をかける。結果として革命軍はほとんど犠牲者を出すことなく、メキシコ軍に壊滅的な打撃を与え、サンタ・アナ将軍自身を捕らえることに成功した。サンタ・アナ将軍は自らの命と引き換えに、テキサスの独立を承認させられたのだった。

こうしてサンジャシントは、自身の独立戦争における決定的な「勝利の記憶」としてテキサスの人々の心にいつまでも刻まれることになった。しかし、この勝利の記憶にしても、見方を変えてメキシコ側の立場に立てば、一つの素朴な疑問をもたらす。「そもそも、アメリカ人革命軍にメキシコの土地を独立させる正当性はあったのだろうか?」テキサス独立戦争の歴史的意義について論じることはこの記事の範疇を大いに超えるので、ここでは全く違った認識を持っていた当事者の一人の言葉を紹介するに留めたい。テキサス独立戦争は、新生国家メキシコの独裁によって自らの権利を侵害されたアメリカ人入植者たちが自由のために立ち上がったと説明されるが、その独裁の当事者であったサンタ・アナ将軍はアメリカ軍の捕虜であった間、新生テキサス共和国の高官に対してこう語っている。

(かつてのメキシコ独立戦争の際)私が大いなる熱情とまったき誠実とともに自由のために立ち上がったのは真実です。しかし、わたしはその愚かさがすぐに分かったのです。来たるべき100年に、わが人民は自由に適合しません。彼らは自由を何たるかを知らず、そのまま無知蒙昧であり、カトリック聖職者の影響下にある現状では、独裁が彼らには適正な統治体制なのです。しかしそれが賢明で有徳のものにならないだろうという理由はありません。

生涯、フランスの英雄ナポレオンに憧れていたサンタアナ将軍。フランスが、フランス革命後の混乱の後、ナポレオン時代を経て、国民国家としてまとまっていったことを思う時、彼の時代のメキシコを「独裁」としてのみ語るのは、それはそれで余りに一面的過ぎる見方だろう。

テキサスに残る二つの勝利の記憶に対して、日本人である僕らは、来る8月15日に向けて、悲しみと戦争に対する愚かさの記憶を呼び起こしていくことになるだろう。複数の国や民族の関わりとして、戦争ほど全ての当事者が共通の記憶を持つことが難しいものはない。僕にできることがあるとすれば、全ての関係者が「勝利の記憶」を持てる状態、現代的に言えば、「WIN-WINの関係」を持てる状態を目指して、ビジネスを通じて、そして、自らの思索と文章を通じて、周りの世界に働きかけていくことなのだとは思う。

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「文化と食」の都市ヒューストンと呼ばれて
少し前の記事になるが、ニューヨークタイムズが"The 46 Places to Go in 2013"と題して、今年最も訪れるべき世界の観光スポットを、ベスト46のランキング形式で選んだ記事の中で、ヒューストンは全体で7位(アメリカの都市の中では最高の順位)に選ばれていた。普段海外からお客さんが来るたびに、観光プランの作成に困る身としては、ヒューストンが世界7位のホットな観光地というのは少々驚きだ。同記事の説明では、ヒューストンは一般的には「エネルギー産業の中心」として知られていることを認めながらも、ヒューストンが注目すべきスポットである理由として、この街が新たに、アメリカの「文化と食」の中心になろうとしていると述べている。

↓元の記事はこちら
http://www.nytimes.com/interactive/2013/01/10/travel/2013-places-to-go.html?_r=0

文化という意味では、ブロードウェイや、メトロポリタン、MoMA美術館を有するニューヨークがある中で、アメリカの「文化の中心」になるというのは、あまりにおこがましい気がしなくもない。ただ一方で、自分自身の感覚としては、ご当地びいきを別としても、全く的外れでもない気もする。何しろこの街には、シェールガス革命で活気を取り戻したエネルギー産業からもたらされる富が蓄積され、絶え間なく新しい人口が流入している。古今東西、金と人が集まるところには、文化も花開くというのが道理というものだ。以下でその具体例を少し見てみよう。

ヒューストンがエネルギー産業の中心であったのは、何もシェールガス革命に始まったわけではなく、20世紀初めに近郊に油田が見つかって以来、世紀を超えてエネルギー産業を牽引しつづけているのであり、そして、そのオイルマネーの一部もまた、昔からアートに向かっていた。冒頭の記事でも触れられていて、常に新しい文化施設が建ち続けるエリア、Houston Museum Districtの一角に、その営みの初期の証拠である美術館、Menil Collection(メニル・コレクション)はある。

初めての人はおそらく正しく発音できないSchlumberger(カタカナでシュランベルジェに近い発音です)は、業界の人には余りに有名な、フランス起源でヒューストンに本社を有する世界的な石油サービス企業だが、第二次大戦後の1940年代後半にヒューストンに移り住み、夫が同企業の重役となったジョン・メニルとドミニク・メニル夫妻は、ビジネスの傍ら、精力的な美術品の収集を続けた。現在夫妻のコレクションは、メニル・コレクションという無料の美術館として一般に公開されている。20世紀のシュールレアリスムや、現代アート、またそうしたアートに属するアーティスト達にインスピレーションを与え続けた古代美術やアフリカの美術に関する収蔵品は豪華の一言で、シュールレアリスムでは、ピカソや、デ・キリコ、ルネ・マグリット、現代アートでは、アンディー・ウォーホールやジャスパー・ジョーンズなどの有名どころの作品が惜しげもなく並べられている。

そして、最大の見所は、美術館に隣接して建つ、ロスコ・チャペルで、抽象表現主義の代表的な画家で、夫妻の友人でもあったマーク・ロスコ(Mark Rothko)が製作した八角形の建物だ。プロテスタントからカトリックに改宗したドミニク・メニルの意向も反映してか、建物は、「特定の宗教に帰属しない神聖な空間」と位置づけられているのだが、ロスコの巨大な壁画に囲まれたその内部に座っていると確かに、もし「どの宗教にも属さない、形而上的な「神」と呼ばれる存在に近づける場所」があるとしたらこういう場所なんだろうと思わせる、静謐で厳かな雰囲気が漂っている。

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一方で、何も仰々しい美術館芸術だけが「文化」なわけではなく、常に外部から移民を受け入れ続けるこの都市にあって、出自を問わず万人が楽しめる文化もある。難しい背景知識もいらず、歌とダンスで誰もが幸せになれる舞台芸術、ミュージカルだ。

夏の間、都心のハーマン・パークの中にある屋外劇場ミラー・シアターでは、無料でミュージカルを中心とした舞台が開催されていて、僕は先日ブロードウェイの古典的名作、コーラスラインの公演を見に行った。8時15分から始まる公演は11時過ぎまで続くのだが、普段10時過ぎにはほとんど街からいなくなるヒューストンっ子たちが、大きな会場を終演まで埋め尽くし、臨場感あふれるオーケストラの演奏もあり、最後まで熱気に溢れていた。

この作品は、様々な人生を歩んできたダンサーたちが、30歳前後のキャリアの曲がり角を迎える中、それでもダンスがしたくて、結局脇役でしかないコーラスラインのオーディションに必死に取り組むというストーリーで、日本でも劇団四季の重要な演目になっている。ただ今回改めて見てみて、同性愛者や黒人、中国やプエルトリコからの移民などのアメリカ社会のマイノリティーが、その逆境を乗り越えて夢をつかもうとする姿は、やはりアメリカに住んでこそ本当に理解できるのだと感じさせられた。

特に今でこそ傑作だと思えたのが、常に明るいジュディが出身地を問われ、「私はテキサスのエルパソ生まれなの!」と高らかに叫んだ時、会場から大きな拍手が沸き起こったことだ。1970年代の初演時、ブロードウェイでの公演を意識して、このセリフは「田舎のテキサスの更にド田舎」という意味合いで作られているはずなのだが、時を経て、この瞬間にテキサスのヒューストンで語られる時には、「発展を続ける我らがテキサスの出身」ということで、自信を深める住民のテキサスへの誇りを更に鼓舞しているのだった。

そう、ヒューストンがもし本当に、「文化の中心」であるとするなら、メニル夫妻の様なパトロンが必要である一方で、一人ひとりのヒューストン住民がヒューストンの文化的資産を自らのものとして楽しみ、育てていく意識が欠かせないだろう。そしてその意味では、ヒューストンに住む僕もその営みの一員なのだ。そこで、基本的に自己満足なこのブログが、少しでも「文化都市ヒューストン」を浸透させることに役立つことを信じて、このテーマは定期的に書いていきたい。

ところで、「食」については、またの機会に…

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Author:タツヒコ
アメリカのテキサス州ヒューストンに駐在する商社マンです。

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